とある講師の冒険譚

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【新発見】豊臣秀吉による最後の城郭ー幻の「京都新城」ー

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豊臣秀吉(1537~98年)が晩年に造営したと伝わる「京都新城」の遺構とみられる石垣や堀、金箔瓦などが京都仙洞御所内で見つかった、と12日に京都市埋蔵文化財研究所が発表した。

公家の日記などに記述があったものの、造営からわずか30年で解体されたために「幻の城」とされ、今まで遺構は未確認であった。


「京都新城」石垣と堀見つかる 最晩年の秀吉築城、初の遺構―京都

 

 

「京都新城」とは?

遺跡の概要

京都新城」とは慶長2年(1597年)に豊臣秀吉が幼い息子・秀頼(1593~1615年)のために、京都御所の南東に築いた城郭風邸宅のこと。秀頼が短期間利用した後は、秀吉の正室である高台院(北政所)が隠居屋敷として用いたのみであった。

『言継卿記』や『義演准后日記』などの公家の日記などには「太閤御所」「新城」などと記され、敷地は東西に約400m、南北に約800mと現在の京都仙洞御所を上回る規模であったとみられる。

 

 

「京都新城」の遺構

京都埋蔵文化財研究所が昨年11月から消火設備工事に伴い、南北約13.5m、東西約10mの範囲の発掘調査を実施した結果、南北約8mにわたる石垣と堀の遺構が見つかった。本丸の西側に位置していたとみられる堀は「空堀(からぼり)」で、幅は約20mにわたっていたと考えられる。

今回確認された石垣は高さ1~1.6m、長さは南北に約8mあり、野面積み(のづらづみ)」と呼ばれる安土桃山時代の工法が用いられている。また、遺構からは金箔瓦が発見され、そこには秀吉が用いた桐紋が描かれていた。

寛永5年(1627年)に同所に後水尾天皇のために仙洞御所が造営された。その際の整地面よりも深い場所で石垣が発見された。

これらの特徴から京都埋蔵文化財研究所は「京都新城」の遺構と判断した。

 

アクセス

残念ながら新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐため、遺構の一般公開は行われないようです (T_T) 一日も早い事態の収束が望まれるところです。

外出が可能となりましたら訪れてみてください。その時のために「京都新城」へのアクセスを紹介しておきます!

京都新城」は京都御所内にあるため、見学するためには事前に宮内庁に参観予約が必要となります。詳細は下記をご参照ください。

sankan.kunaicho.go.jp

 

【所在地】〒602-0881
     京都府京都市上京区京都御苑3

【交通機関】地下鉄烏丸線 丸太町駅から 徒歩15分
      市バス 府立医大病院前から 徒歩10分

【営業期間】
 公開日:参観時間は11時~13時30分
     (所要時間約1時間)
 ※事前予約制…申込みは往復はがき、ホームページ、宮内庁京都事務所参観係の窓口 

 非公開日:年末年始(12/28~1/4)
      土・日・祝日、行事等が行われる日。
     (3・4・5・10・11月の土曜日、
      他月の第3土曜日は参観可)

 

 

「京都新城」の歴史は?

簡単に「京都新城」の歴史を年表にまとめてみると…

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安土桃山時代から江戸時代へと移り変わる時期に、短期間であるが存在したことが分かる。時の権力者である豊臣秀吉によって築かれたものの、秀吉の死から徳川家康への政権交代によりその存在価値が失われ、歴史の表舞台から姿を消すことになったのである。

 

 

最後に…

今回の「京都新城」の遺構発見は、多くの研究者が「歴史的大発見」と述べている。

病の床に臥せっていた秀吉が、息子・秀頼のために築いたものであり、自らが死んだ後の朝廷との関係をどのように考えていたかを捉える上でも、今後の研究の進展に期待したい。

専門用語が多くて分かりづらいところもあったと思いますが、この時代を少しでも理解するための参考文献を以下に挙げておきます。興味がありましたら読んでみてください!

この2冊はそれぞれ「岩波新書」「ちくま新書」から出ている通史シリーズとなっています。一般の方向けに書かれたものなので非常に読みやすく、内容も最新の研究をとり入れているので、「京都新城」の時代背景を理解する上でおすすめです!